夜。カバルカン王国王城。
ベンガル湾を望む丘陵に聳(そび)え建つ豪奢(ごうしゃ)な王城には、その外観に似つかわしくない饐(す)えた空間がある。
牢獄である。
王城の地下に設(しつら)えた暗い牢獄内には、十二の牢屋が互いに向き合う形で設置されていた。
先刻、ユマが目覚めた時、ゲンジ、ユマ、シュレイの三人は牢屋のひとつ、出入り口すぐ側に置かれた牢屋に押し込められていた。
三人は、しっかり捕まっていた。
荷物の類いは全て奪われ、猿轡(さるぐつわ)をされ、両手を縛られて、冷たい石畳に放り投げられた格好である。
先刻、牢屋で目覚めたユマは、ゲンジに向かって何やらモガモガと喚(わめ)いていたが、猿轡の為に言葉にならず、諦(あきら)めたのか今は眠ってしまっている。
暗い牢獄内には、石畳に水の滴(したた)る不気味な音だけが響き、明かりは唯一出入り口に設置されている見張り屋の灯りだけである。
「ユマ、ユマ……。」
不貞腐(ふてくさ)れて眠っていたユマは、不意に揺り起こされた。
目覚めて周りを見回すと、シュレイが牢の施錠(せじょう)を解いて檻を出て行くところだった。
三人の縛(いまし)めは、すでに解かれている。
「ふわあああああ」と大欠伸(おおあくび)をひとつして、両手で目をこしこしと擦る。
「ほらっ、しゃきっとしろ、早くしねぇとイキの野郎はもうとっくに着いちまってるはずだぞ。」
小声で言いながらゲンジはユマを抱き上げると足早に牢屋を出た。
二人が出入り口をくぐった時にはシュレイが見張り屋の兵士たちを倒していた。
当て身で失神させている。
ゲンジはユマを降ろすと見張り屋に投げてあった荷物を素早く身に着け、ユマ、シュレイもそれに倣(なら)って荷物を身に着ける。
「さてと、お姫様は何処(どこ)にいるのやら……。」
言いながらゲンジがシュレイに意味ありげな目線を送ると、シュレイは頷き先に立ってって歩き出した。
ゲンジとユマもシュレイに続く。
城内は、妙に静かだった。
石畳の暗い回廊を右へ左へと進んで行き、上の階へ続く階段を何度か昇った。
その間、誰にも出会うことも無く不思議な雰囲気の中、黙々と歩いていく。
「気にいらねぇなぁ……。」
ゲンジが呟いた。
ようやく辿り着いた所は、豪華で頑強そうな大扉の前であった。
両開きの大扉にゲンジが手を掛けると案の定、施錠してある。
ゲンジが身を空(あ)けるとシュレイが素早く開錠して扉を押し開けた。
そこは、どうやら姫君の私室らしい。
明かりは灯っていない。部屋には淡い月の光りが差し込んで、寒々とした雰囲気である。
テラスにむかって、ガラス張りの扉が開け放たれており、夜風がそよそよとレースのカーテンを揺らしていた。
豪奢だが品の良い調度品に人柄が偲(しの)ばれる。
天幕を張った優美な寝台には誰も居らず、部屋の奥、正面の壁に拠(よ)りかかるようにして姫様は眠っていた。
「かわいいね、昼間はごきげんが斜めなだけだったのかな?」
遠目で姫様を見ながらユマが言った。かわいいと言いながらも近づくのは、少々怖いようだ。
ユマの言う通り、愛らしい寝顔に昼間の面影は無く、体を小さく丸めて子猫の様である。
しかし、右足首に繋がれた太い鎖が普通ではないことを物語っていた。
「こりゃあ、大分話が違ってるぞ。この姫様まともじゃない。」
「どういうこと?」
「おそらく心の病か何かだと思う。これをイキに引き合わすのは、ちょっと難しいとおもうぞ。」
「病気なの?で、でも三日後には結婚することになってるのよ。
ねぇ、ちょっとこれ見て。」
言ってユマは、鎖の留め金を指差す。
壁に打ち付けられた留め金には、少し錆が浮いていた。
「これって昨日今日に取り付けられた物じゃないでしょ。きっと随分前からあんな感じなんだと思うの。それでも結婚するってことは、病気じゃなくてあれが普通なのよ、たぶん。イキさんの話とは大分違ってるけど・・・」
「う〜ん、そう言われて見れば・・・。しかし、たとえそうだとしても、どうするんだ?この姫様、目が覚めればきっとまた暴れだすぞ、お前の考えた計画も通じないだろう。」
「うーん、せっかく考えた完璧な計画だったのに〜。」
腕を組み、不貞腐(ふてくさ)れるユマ。
「もうイキの野郎も来てるだろうし、とりあえず姫様連れてって、後はそれからってんでいいんじゃないか?」
ゲンジの言葉に頬を膨らましてユマは頷いた。
その頃。
密林に通る間道では、イキと白虎の睨み合いが続いていた。
白虎の蒼い瞳が、イキを見つめている。
その澄んだ瞳。
イキには、何故かとても悲しげに見えた。
「頼む、そこを退(ど)いてくれ……。」
知らず呟くイキ。
すると、白虎が僅(わず)かに首を振った。左右に否と応(こた)えるようにである。
「まさか!言葉が解るのか!」
叫ぶイキ。
白虎は応えない。
(やはり、魔物なのか……。)
白虎は、じっと動かず、ただイキを見つめている。
「やってやる……。」
言ってみて、不思議と決意が固まった。
「そこを退けぇー!」
雄叫びと共に腰の短刀を鞘から引き抜いた。
白虎の瞳が驚愕の色に染まる。
その瞬間。
何か見えない力に突き動かされたかのように白虎の上半身が跳ね上がり天を仰(あお)いだ。
咆哮が上がった。
腹の底に響く肉食獣の咆哮だ。
止まない咆哮。
イキは骨の軋(きし)むような恐怖を感じた。
全身が震え、歯がガチガチと鳴る。
白虎の瞳が不気味な赤い色に光っていた。
一方、姫君の私室。
突然、姫様に異変がおきた。
今までおとなしく眠っていた姫様が突然、何かに操られているかのように上半身を大きく跳ね上げたかとおもうと、天を仰(あお)ぎかっと目を見開いた。
「イキ、やめてえええええ!!」
姫様の叫び声が響き渡る。
驚くゲンジにユマ。
「イキ、やめて!私なのアムジカなのよ!!」
姫様は、ひどく取り乱し叫び続けている。
「しゃ、しゃべってる……。」
目を剥(む)いて呟くユマ。
どうやら姫様が話せるとは思ってなかったらしい。
ユマの呟きが姫君の気を引いた。
姫様の視線がユマ、ゲンジ、そしてシュレイへと向けられる。
「ひっ、あなたたちは!!」
目を剥いて驚く姫様。
「いやっ、やめて!殺さないで!私、何も悪い事してない!!」
ガタガタと震えだし、泣き叫ぶ。
呆気(あっけ)にとられるゲンジたち。
お姫様は、もう半狂乱である。
金切り声が私室に響き渡り耳を劈(つんざ)く。
おもわず耳を塞(ふさ)ぎ、その場にしゃがみ込んでしまうユマ。
「いったいどうしたってんだ突然!」
片耳に指を突っ込み、大声で言うとゲンジはシュレイに目をやるが、シュレイは首を横に振るだけ。
「ど、どうしよう!お父ちゃん!!」
両手で耳を塞いだまま大声でユマが言う。
「ちっ、しょうがねぇ。」
「どうするの?」
「まかしとけって!」
ユマが見ると、ゲンジは背負っていた荷物の中から麻の袋を取り出してニッと笑った。
密林の間道。
白虎は、まさに魔物と化していた。
一頻(ひとしき)り咆哮を上げたかとおもうと、今度は重厚な足取りでイキの方へ近づいて来る。
赤色に染まった瞳に残忍な輝きが見えた。
その場にへたり込んでしまうイキ。
立ち上がろうにも足が震えて力が入らず、尻を交互にずらしながらじりじりと後退(あとずさ)っていく。
それを楽しんでいるかのように牙を剥(む)き、ゆっくりと近づいて来る白虎。
白虎が軽く吼えた。
身が縮み硬直してしまうイキ。
(だめだ……、殺されてしまう……。)
そう覚悟した時。
白虎の背後に立つ黒い影。
影が吠えた。
白虎がそれに気づいた。
そして次の瞬間。影が白虎と交錯した。
白虎が一瞬よろめいたかと見えると、影がイキを庇(かば)うように立っている。
イキは、影の正体を見た。
ロバである。
イキの目の前で揺れる尻尾。
白虎が咆哮を上げた。怒気を含んだ咆哮、ロバを睨みつけ牙を剥いて威嚇(いかく)している。
ロバに怯(ひる)んだ様子はない。
白虎が体勢を低くし、体のバネを撓(たわ)めている。
ロバも首を低く下げ、蹄(ひづめ)でガッ、ガッと地を削(けず)る。
白虎が動いた。
ロバもそれに続く。
交錯する二匹の獣。
一瞬の攻防の後、互いに背を向け、立ち位置を交換した形で止まった。
ロバの左首筋に四本の傷がはしっていた。
白虎に傷は見られない。
しかし、しばらくして膝をついたのは白虎の方であった。
ガクッと前足を折り、小さく唸(うな)っている白虎。
ロバが向き直る。
しばらくの沈黙の後、白虎は逃げるように茂みに跳び込み、ガサガサと木擦(こず)れの音を引き摺(ず)りながら遠ざかっていった。
イキは、ほっと安堵の息をついた。
ロバがイキのもとへ近づいてきた。
鼻先を摺(す)り寄せるロバの額(ひたい)を撫でてやる。
「お前強いなぁ、ありがとう助かったよ!」
ロバの首筋に傷が見える。
「大丈夫かい?たしか、チルって言ったね、ユマちゃんは近くに来ているの?」
そう、あのユマをいつも背負っているロバである。
「今、ちょっと手当ては無理だから、これで我慢してくれ。」
言いながらイキは、自分の上着を破いて傷に巻いてやる。
「さてと、急がなきゃ!きっとユマちゃん捜してるよ。それともユマちゃんが僕の所へ寄越したのかな?まあいいや、ほら、おいで。」
城下に向かって駆け出したイキ。
その後には、チルの姿があった。
「チル、チルが無い!!ちゃんとここに置いといたのに!」
ユマである。
王城を取り囲む城壁の外にユマたちはいた。
お姫様は麻袋に放り込まれゲンジに担がれている。口には猿轡までされていた。
いつもなら、じっとユマの帰りを待っているチルなのだが、今日に限って姿が見当たらない。
ユマはもう半泣きの状態である。
「チルなら後から追いかけてくるさ、それよりも早くしねぇと面倒な事になるぞ。」
ユマの頭を撫でながらゲンジが言った。
「でもさ、でもさ、もしも誰かに無理やり連れてかれたりしてたら・・・」
「大丈夫。奴は並のロバじゃねぇ、そうそうあいつに太刀打ちできる奴はいねぇから安心しろ。今はチルよりも姫様の方が先決だ。ほれ、行くぞ!」
「う、うん・・・」
渋々納得するユマ。
一行は歩き出した。
夜陰に紛(まぎ)れてパルマ村へ向かう。
イキとの約束は反故(ほご)になるが、いつまでも王城近辺に留まっているわけにもいかない。
黙々と歩いていく。
一行が城下を出て密林に分け入った頃である。
前方からこちらへ向かってくる影が見えた。
「チル!」
ユマの表情が明るくなる。しかし、それは一瞬の内に掻(か)き消された。
「ちがう、チルじゃない……。」
言われるまでもなく、それは人のようであった。
更に近づくと、どうやらトヒルらしいとわかった。
トヒルとは、ぶらつく者と言う意味を持ち、一般的に物乞いなどを指す蔑称(べっしょう)である。
トヒルは、頭からすっぽりと襤褸(ぼろ)を被っただけの小男で、布から出ている手足は節くれ立ち、酷く痩せこけていた。
ゲンジたちが近づいていくとトヒルは、道を空けると膝を揃(そろ)えて地面に着け、低く頭を垂れる。
一行が通り過ぎようとした時。
「どうか、哀れなこの身にお恵みを……。」
と、トヒルは言った。
嗄(しゃが)れた声である。酷く聞き取りにくい。
ゲンジはトヒルを一瞥(いちべつ)し、そのまま通り過ぎた。
シュレイもそれに続く。だが、その顔には緊張の色が見えた。
そしてユマである。
「おっちゃん!この辺でロバ見なかった、ロバ!」
突然の問いかけにトヒルは、伏せた顔を上げるとじっとユマを見つめ、しばらく思案気な表情を見せると何か思い当たったのか、そっと手招きしてみせた。
「なんか知ってんの!」
喜び、勢い込んでトヒルに詰め寄ろうとするユマ。
だが、銀の十字槍に阻まれてしまった。
「シュレイ!?」
見ると、ひどく真剣な顔をしたシュレイが十字槍を手にトヒルを睨んでいる。
トヒルがシュレイに視線を移し、ニヤッと笑みをつくった。厭(いや)らしい笑みである。
次の瞬間。
シュレイの持つ銀の十字槍が宙を舞った。
見えない力に弾き飛ばされたのだ。
驚愕するシュレイ。
「きゃあああああ!!」
ユマの悲鳴があがった。
トヒルがユマの背後から、腕を顎下(あごした)に巻きつけ、抱(かか)え上げている。
「きさま!いったいどうゆうつもりだ!」
怒鳴りながら、トヒルに駆け寄るゲンジ。
トヒルは、ニヤニヤと笑っている。
「酷いではありませんか。無視して通り過ぎようとするなんて……。」
「きさま〜、ユマを放しやがれ!」
詰め寄るゲンジ。
「おっと、ここは動かずにいてもらいたい。争いごとを起こすつもりなど毛頭ありませんが下手に動かれると、こちらもそれ相応の手段を取らねばなりませんので……。」
トヒルに言われ足を止めるゲンジ。
ユマは、バタバタとトヒルの腕の中で暴れている。
「わかった。小銭ぐらいならくれてやるから、ユマを置いてどこへなりと失せろ!」
ゲンジの言葉にトヒルは応えず、ただニヤニヤと厭(いや)らしい笑みを浮かべているだけだ。
「んもぅ、この、チルがいたならお前なんか、ボッコボコなのに〜」
そう喚(わめ)きながらユマは、トヒルの股間めがけ蹴り上げる。
しかし簡単に防がれ、右腕をきつく捩(ね)じられた。
「いっ、痛い!」
仰け反る(のけぞる)ユマ。
「くそっ、やめろ!きさま何が望みなんだ!」
ゲンジの言葉に焦(あせ)りがある。
「先程も申し上げた通り、この哀れな身にお恵みを。そうですね、貴方が肩に担がれている女性などをお恵み下されば、早々に退散致しますが……。」
「なんだと!きさま、ふざけるのもいい加減にしろ!」
「あなた方は相当腕が立つようだ、互いに遺恨(いこん)の残らぬようにしたいのですが。」
「やかましい、てめぇ……。」
ゲンジがそこまで言いかけた時。
いつの間に廻り込んだのか、シュレイがトヒルの背後をついて躍り掛かった。が、しかし見えない力に弾き飛ばされ、したたかに背中を地面に叩きつけてしまった。
「あなた方は、どうも御自分の立場というものを御分かりになっていないらしい。」
地面に倒れ、咳き込んでいるシュレイを尻目にトヒルが言う。
「あなた方がそういう態度ならば、致し方ありません。」
トヒルが言い終わると同時にパキッ、といやに軽い音が響いた。
「くぅ!」
激しく身を仰け反らせる(のけぞらせる)ユマ。
見れば、ユマの左腕があらぬ方に向いて折れ曲がっている。
「ユマっ!!」
蒼くなるゲンジ。
「そう心配には及びません。大丈夫ですよ、子供さんは怪我の治りが早いですから。」
平然とした調子で言うトヒル。
「きさま〜!」
歯噛みしているゲンジ。
「本当なら指を切り落とし、腕を切り落として、という風にしていくのですが、それをしてしまうと否応なしに遺恨を残す形となってしまいますから骨を折る程度に留めておきますが、それでも子供さんにはかなり辛いと思いますよ。ほらっ!」
またパキッと軽い音が響く。
「あぐっ!」
苦悶(くもん)の表情で打ち震えるユマ。
今度は、左二の腕が折れている。
「これは痛そうだ!早く何とかしてあげないと。」
道化じみた調子で言うトヒル。
なかなかに人質の扱いを心得た奴である。
「わ、わかった・・・」
搾(しぼ)り出すようにそう言うと、ゲンジは肩に担いだ姫様を地面に降ろす。
「この娘はカバルカン王国の姫君だ。わかってやっているのか?」
睨み、問い掛けるゲンジにトヒルは肯定も否定もせず、ただニヤニヤと笑みを浮かべている。
「てめえの言う通りにしてやる!早くユマを渡せ!」
言って後ろに退(さ)がるゲンジ。
「御有難う御座います……。」
慇懃無礼(いんぎんぶれい)な調子で言うと、深々と頭(こうべ)を垂れるトヒル。
そして姫君を肩に担ぐとユマを抱えたまま密林の闇へと消え去った。
「ま、待て!ユマを置いて行け!」
叫んでトヒルを追うゲンジ。
途中、暗い地面に横たわるユマだけが残されていた。
慌てて駆け寄るゲンジ。
見ると、ユマは蒼白の顔に脂汗を浮かして苦痛に震えていた。
ゲンジがユマを抱き上げると何やらぶつぶつと呟いている。
「なんだ?」
優しく問いかけるゲンジ。
「あ、あいつ、絶対ゆるさない……。」
ユマは、それだけを言うと意識を失ってしまった。
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